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不確かなこと

映画『ふたり』

大林宣彦監督作品、1991年公開の映画『ふたり』のページです。原作は赤川次郎
途中までみんな読めます。
 
この映画は「おすすめのゆり」で実加役の石田ひかりの声が可愛いと書きました。お姉ちゃんはいつも実加のそばで見守ってくれています。YouTubeに予告編があったので、是非見てみてください。
以下ネタバレになってしまうかも。
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
場面を断片的に覚えていて、好きなシーンをいくつか挙げるとすると、こんな感じになりました。
 
・ごちゃごちゃの部屋
・実加と真子の自転車登校シーン
・実加と真子の夏
・お姉ちゃんと演劇の練習をするシーン
・お姉ちゃんが実加をいじめた女の子に仕返しする(舞台の上からシーツを落とす)
・神永さんと最後に言葉を交わすシーン
・最後、実加の心の独り言
 
ごちゃごちゃの部屋、何かわからないんですけど好きなんです。それから実加と真子の交友関係がよく、二人が関わっているすべてのシーンがいい。そしてラスト、神永さんと実加の会話からは実加が大人に成長した様子がわかります。
 

 「船の仕事だからね。世界中色んなところを旅して暮らすことになる。一緒に行ってみないか。」


「「どこか遠くへ行きたい」、そう願っていたのはお姉ちゃんでした。わたしはね、目を閉じると、いつでも、どこへでも、望むところに行けるの。いつでも、誰とでも会うことができるの。だからわたしはここにいます。」

 

「そうか、じゃあ僕は寂しくなるね。」

 

 この実加のセリフは前からブログに書こうと思っていました。というのも、この映画の何がいいのか考えてみたら、「おすすめのゆり文化交流」の第1回目で書いたセーラームーンと同じ構図/関係なんじゃないかと思いました。

1つは友だちを想う。2つは愛ある冗談を交わせる関係。お姉さんの恋人だった神永さんに恋をした実加は、姉はもうこの世にはいないのだから神永さんと結ばれてもいいのに、遠くに行きたいのはお姉ちゃんだ(私はここにいると)と言うのです。

神永さんがお姉さんの葬式の席を早々帰ろうとしたことは、きっとお姉さんへの未練を表しているのだろうと思いますが、実加自身は、その感情を感じたから神永さんの誘いを断ったわけでもないと思うんです。

そもそも神永さんと実加は結ばれるとか、そういう言葉ではくくれない気がしていて、それが神永さん(尾美としのり)の素朴で、朴訥とした声で「じゃあ、僕は寂しくなるね。」と会話が終わるところに感じられる気がしました。(尾美としのりは演技が、濃すぎず離れ過ぎずの、それでもってちょっと遠いようなところがわたしは好きですね。大林宣彦作品は、尾道三部作の転校生だけがTSUTAYAになくて観れてません…。)

 

最後の実加のセリフ。

…そんなわけでお姉ちゃん。わたしはまたひとりぼっち。お父さんは小樽に戻ったし、お母さんは病院の方が気が楽だって。でもね、わたしはずっとお姉ちゃんと一緒。いままでよりも、もっともっと一緒よ。だってわたし、お姉ちゃんを別な方法で捕まえることにしたんだから。わたしね、お姉ちゃんのことを書くの。元気だった頃のこと、死んでからのこともね。誰も信じないかもしれないけど、そんなの構わない。人に読んでもらうためのものじゃないから。お姉ちゃんのこと、いつまでも忘れないためなんですからね。…これはお姉ちゃんが使っていた万年筆。でもさ…ちょっと文句を言わせていただきますと、書き癖がついちゃってて書きにくいんだよ?これ。

 

「おすすめのゆり」でも書いた、実加の「お姉ちゃん」と呼ぶその声に、お姉ちゃんへの好きが詰まっています。

何より、「人に見せるためじゃない」というところ。映画ですから、実加の心は観客にオープンになっていますが、「実は見える形では現れてない内面」を私(観客)は見てしまったことに、この映画を観てよかったと思える要素があります。実加はお姉ちゃんとの思い出を別に誰かに知ってもらいたいわけではなく、それは実加の中にあればいい。最後にお姉ちゃんへの文句を言うところも可愛いですね。

 

携帯で入力するのは結構疲れるので、早く新しいパソコンが欲しいですね。