kiroku

冬の陽の短さ

あなたの幸せはすべて私の幸せ

 西武新宿線沿いにたたずむ二階建ての築二十七年の鉄筋コンクリートのアパート。1LDKの一室に目玉焼きとトーストの焼ける匂いが部屋いっぱいに広がる。その匂いの中にはよくかいでみると秋の匂いも混ざっている。九月に入り一気に秋らしい気候になった。今日は一日晴れだと、寝る前に見た天気予報のアプリが教えてくれた。

 

「さあやー、朝だよー」

 隣の部屋で寝ている佐綾を呼ぶ。今朝は私が朝食係だった。もう少しでできるところで、佐綾が布団からもぞもぞと出てきた。ふすまを開けて「ん…」と言ってリビングに隣接する洗面台に向かう。長いストレートの黒髪が朝から艶を持っている。

「マヤ、今日の予定は・・・?」蛇口をひねって掬った水を手にためながら佐綾が聞いた。

「今日はいろいろプランを考えてるから!楽しみにしてて」

「うん、わかった」

 佐綾が顔を洗っている間に、私は冷蔵庫からレタスとトマトを取り出した。

 

 私と佐綾は女子校時代からの親友で、恋人だ。関東の片田舎で良家の子だった佐綾が、地元の公立高校に通っていたのは奇跡に近かった。入学式の生徒代表であいさつをしている姿を一目見たときから運命の人だと思い、同じクラスメイトになれたことがさらに運命に拍車をかけた。告白したのは高校三年生の卒業式。別に告白しなくてもずっと一緒にいられると思っていたけれど、なんとなくそういうタイミングだった。それからは都内の総合大学の佐綾は経済部、私は文学部に入学した。同棲を始めたのは大学を卒業してからで、本当は高校卒業後すぐにでも一緒に暮らしたかった夢も佐綾の両親の反対で先伸ばしになった。結局四年間は互いの家を行き来し、卒業式が終わったと同時に不動産屋に駆け込んで今のアパートを契約した。二人で散歩をしていたときに見つけた物件で、ずっと気になっていた。一度内覧させてもらえばあっという間に気に入った。私たちが暮らすのにちょうどいいサイズだった。

「なににやにやしてるの」

 すっきりとした表情の佐綾が頬を引っ張る。この状態が幸せすぎて、さらににやにやする。佐綾は「ふふっ」と笑って窓際に置かれたテーブルについた。目玉焼きをパンの上に乗せゆっくりと頬ばる。いつもより時間が経つのが遅く感じる。レースのカーテンを通して部屋に差し込む陽の光が佐綾の左頬を照らし、長いまつげがきらきらとゆれる。この人とこの世界で出会わせてくれてありがとうございますと神様に感謝する。

 

 今日のプランは決まっていた。西武新宿線急行に乗り高田馬場で山手線に乗り換えて新宿へ。その後、中央線快速に乗り継いで四十分ほどで吉祥寺に着く。吉祥寺のPARCOに用があった。高校時代を共に過ごした友達の千草が、大学在学中からデザイナーとして働く服屋が店舗で入っていた。先日、新しい冬服が出たと聞いて佐綾と見たいねと話になっていた。服と、地下一階にある本屋を見た後は近くにある古本屋に寄る。二人のお気に入りの喫茶店に行き、夜は足を伸ばして六本木の美術館に行けば年中クリスマスかというくらい電飾が彩られている街中を歩き、イルミネーションを見になんていつもはしないけど、たまには特別な場所もいいかなと思った。

 外に出ると乾いた冷たい風が頬を撫でた。シンプルなヌバックレザーのパンプスのヒールが階段を一段降りる度に、カーンと音を響かせる。その音のからっとした感じが秋らしかった。塀に囲まれた一軒家が続く路地を抜けたら線路に沿って駅まで歩く。手袋をしなくていい時期は直に触れた手から伝わる熱を感じられるからいい。つないだ手を見ると二人でおそろいにしたマニキュアが光ってかわいい。私は空いたもう片方の手で佐綾が誕生日プレゼントでくれたイヤリングに触れた。

「また一段と髪色が明るくなった?」

「やっぱりそう思う?日に当たるとよくわかるんだけど、傷んでるのかな」

 人差し指で束を掴んでくるくると回してみる。もともと髪は明るくて天然パーマがひどい。昔は嫌いだったけど、今は佐綾がかわいいと言ってくれるから気に入っている。

「新作のコートと、あとマフラーもいいって言ってた」

「マフラーか」

「うん。確かに、あったかぁいマフラーも手袋も必要だよね」

 今日の買い物には目的があった。それは今住んでいるところから一000キロ離れた場所に行くための身支度だった。

「・・・北海道もうすぐだね。なんか、早いなー・・・」

「…そうね」

 佐綾が間を開けて答える。この話題をするには少しタイミングとして早かったかもしれない。顔色をうかがうように佐綾の顔をのぞき込む。まつげが少しだけ震えている気がした。いけない、今日は特別な日なのに。私は慌てて話題を変えようとしたけれど、うまく言葉が出てこなかった。代わりにつないだ手をぎゅっとにぎり直した。応えるように佐綾も手に力が入った。

 私たちは来月、北海道に行く。旅行ではなく引っ越すのだ。

 

 事の発端は一ヶ月前の八月上旬。仕事終わりの夜、都内の喫茶店で場所も忘れて声を荒げた。

「そんなの無理!」

「私だって信じたくない…」

 長い黒い髪が肩からさっとこぼれ落ちる。佐綾も頭を抱えていた。平穏な日常から急転したのは佐綾に縁談が持ちかけられたからだ。事を進めていたのは佐綾の両親。私を友人という関係でしか受け止めてもらえていなかったこと、遊びはもう終わりとでもいうかのような宣誓は私にかなりショックを与えた。

 世界は私たちを受け入れてくれていると思っていたのに。私たちのこれからはすべて必然で紡がれていく予感しかしていなかったのに。突然の話に天を仰ぐ。同棲にも時間がかかったけれど、今度はついに見合い。佐綾が素性の知らない男性にもらわれてしまう。

 

 私たちは数日後、千草に相談をしていた。時間は融通が利くと、平日の昼間に喫茶店に来てもらった。焦げ茶色の髪を一つにまとめ、いつ見ても新品のようなパリッとしたグレーのスーツを着こなしている。

 

「うーん・・・」

「千草」

「…2人とも穴があくほど見つめないで」

「千草はコーヒーカップを口元に近づけた状態で止まり、もう一度カップをソーサーに置く。

「よくわからない御曹司との見合いは十月ってことは決まっているみたい」

「断るわけにはいかないの?」

「正直、既に決まっているような話。当日は形式的にやるだけだが、一度会うと余計に断りにくい」

「なるほど」

「会ったら終わりだと思うからどうにかこうにかして、会わないようにしたい」

「うーん・・・」

 三人のコーヒーはあっという間に冷めた。こめかみに手をあて、時間だけが過ぎる。この日だけで眉間のしわが増えてしまった気がする。ぱっと目を開いて口火を切ったのは千草だった。

 

「駆け落ちしたらいいんじゃない?」

 

         ◇

 

 千草が提案した作戦はこうだった。千草の母親の姉夫婦が遠く北海道で農家を営んでおり、手伝う傍らしばらくの間住まわせてもらえばいいと。会わなければいいのだから、まずは遠くに逃げるという考えは何とも子どもじみたものだし、「駆け落ち」なんて言葉はドラマや映画でしか使わないと思っていたけれど、思いの外その言葉に佐綾が食いついた。

 そこからはあっという間だった。佐綾はいつ書いたのか、三人で話合った翌日には退職届けを提出していた。慌てて私も書き、十月月初旬までには家を空けられることになった。荷物はもともと少なかったし、本も必要最低限にしぼった。我々は佐綾の両親に悟られないように静かに物事を進めた。他のさまざまな手続きは千草も協力してくれた。

 

 新宿駅の改札を抜け、次の電車に乗り換える。階段に描かれた矢印の方向を逆走する人を避けながらホームに降りると佐綾がおもむろに「案外簡単なことだったな」と言った。私はすぐにこの間の千草との会話だと想像できたけれど返事ができず、反対側のホームの壁を眺めた。電車はよどんだ空気を一掃するかのようなスピード感と音を立てながら時間通りに入ってきた。ドアが開くときに聞こえるか聞こえないかくらいのボリュームで「うん」と答えた。

 今回のことに佐綾は不安ではないのだろうか。電車の窓に反射して映る佐綾を見ながら考えた。何もかも突然だったし、北海道なんて旅行でも行ったことがない。たまたま、縁談の話がふられる前に夕食を食べながらテレビを見ていたら北海道の観光地の映像が流れてきて「今度行ってみたいね」「本物の雪を見よう!」なんて話してたけど、まさかこんな形で行くことになるなんて、その時は想像もしていなかった。

 浮かない顔をしていたから、佐綾がさっと私の手をとった。指先と視線から伝わる佐綾の気持ち。この熱があれば私はどこだって行ける。そう思っていたのに、いざ現実味を帯びると心臓をキュッと締め付けるような灰色の波が押しよせる。今日は今日。最高のデートを楽しまないと。そう気持ちを切り替えようと思っていても、結局、吉祥寺に着いてからも上の空だった。買う予定だったコートも結局素通りしてしまった。

「一端休憩しよう」

 古本屋に寄る前に喫茶店に入ろうと佐綾が促した。ホットコーヒー二つとビスコッティを注文してひたひたにつけながら食べる。ビスコッティは私たちの好物で、家でも食べている。いつものルーティーンに少しずつ気持ちがほぐれる。

「東京での生活も残りわずかなんだなーって思うと、ちょっと寂しくなっちゃった・・・」

「そんなところだと思っていたよ」

 佐綾がそっと手を重ねる。

「今朝はそんなことなかったの。でも街の匂いをかいだら、ふとこの先のことを考えてしまったの」

「東京の匂いは人を焦らせるよ。大丈夫。自分たちの時間を過ごせばいい」

 カップを近づければふわっと鼻腔に入るコーヒーの香り。あの家で過ごした思い出が入っているような気がした。私は思っていた以上にあの家があの部屋が好きだったようだ。

「大丈夫」佐綾がほほ笑む。

「千草が勧めるんだ。きっといいところだろう」

「うん…。そうだよね、きっとそうだよね」

「自分が自分らしくいられないこと以上に大切なことはないわ」

 

     ◇

 

 玄関に置いていたキャリーバッグに最後の荷物を詰める。鍵を掛けたあと念のためにベルトを一周巻く。フローリングの廊下の先にあるリビングや畳の寝室にはもう物は一つもない。私たちが住んだことをなかったかのようにすっかり元通りだった。佐綾が「窓の鍵閉め忘れた」と言って履いた靴をぬいで部屋に入る。一連の作業を終えてポケットから取り出した鍵二つがぶつかったとき、ちょうどアパートの下に車が止まる音がした。

 その晩は満月だった。千草が運転席から私たちを呼ぶ。タイミングはぴったりだった。乗り込もうと車に近づくと千草以外にも乗客がいた。

「ヨルさん久しぶり」

「佐綾さん!ついにですね」

 助手席に座っていたのは三つ下の妹のヨル。今回の計画を唯一打ち明けている家族で、信頼している。もし私の親が心配するようなことがあれば、無事でいると、しばらくの間は関東には帰れないと伝言を頼んでいる。佐綾の両親も、まだ私たちはこの家に住んでいると思っているようでその 辺りは千草がうまくやってくれた。

 四人を乗せた車は夜の静かな市街地を走り、オレンジ色の灯りが均一に道を照らす首都高速道路に入る。ラジオから流れるクラシック音楽がかかる車内で、妹と千草が他愛ない会話を続ける。佐綾とは何度か一緒に遊んだことがあったが、いつ千草と仲良くなったのだろうとぼんやり考えていたら「まるでかぐや姫だね」と後部座席に投げかけられた。千草も「月の使者が迎えに来たようだ」と言って運転席の窓を半分開けた。二人は好きな作家の新刊について話していたようだった。そう言われてみれば本当にそのように思えた。月の住人のような輝かしさを持っている佐綾が他の人に連れていかれる。翁と違って私は佐綾を月へどころか誰にも渡したくなかった。

 

 二階の出発ロビーでは多くの人がフロアを行き来していた。電光掲示板を見ると行楽シーズンもあって北海道行きの便はほぼ満席なことがわかる。午後七時十分発の最終便。千草が目を細めて時間を確認する。

「何もかも手伝ってもらっちゃって…ありがとう」

「いいよ。マヤのお守りについては今に始まったことじゃない」

「浮かれすぎるマヤをたしなめていたのはいつも千草だったな」

 佐綾が笑う。千草も笑う。思い返せば私たちはいつも一緒だった。初めて遠くなる。三人が三人でなくなってしまうのではないかという不安が一瞬心をざわつかせる。そんな私をなだめるかのように千草がもう一度笑った。

「気をつけて行っておいで」

 保安検査場の前で千草と妹が手を振る。通過してからも見えなくなるまでずっと手を振ってくれた。一時的な避難とはいえ、どうなるかなんてわからない。場所を転々とする必要が出てくるかもしれない。そもそもこんなにも古典的な逃避で大丈夫だろうか。

機内に入り、窓際の座席に座って今後のことを考える。シートベルトを締めれば隣に座る佐綾を見た。少しずつ動き出す飛行機。佐綾は窓の外を眺めていた。東京の夜景がどんどん小さくなっていった。

 

◇  

 

 飛行機は出発予定時刻を三十分遅れ、着く頃には午後九時半をまわっていた。手荷物受取所からゲートの外を眺めると搭乗客を待ちわびた家族や友人たちが今か今かと待っていた。羽田空港にいた人とは異なる服装で、約一000キロ北上したことが見て取れる。ゲートが開くたびに聞こえるにぎやかな声。地方の空港はどこもこうなのだろうか。ゲートを出ると少し離れたところに立つ柔和な表情をした男性とはっきりとした顔立ちの女性が手招きした。

「北海道は初めてだって?思ったより冷えるしょ」

 笑ったときの目元が似ていてすぐにわかった。千草の叔母だ。

 水色のワゴン車のトランクに荷物を積み、少し冷たくなった座席に座る。夕食は食べてきたのか、東京の気候は、千草は元気にしているか。私たちの素性について何も問わない叔母は、千草から事前にたくさんの情報を聞いていたからというよりもともとそういう人らしかった。顔だけじゃなくてさばさばした雰囲気も似ていた。

 空港に続くメインの道から少し脇道に入れば外灯はほとんどなく、車のライトだけを頼りにひたすら真っ直ぐ進む。途中途中に見える家の灯りがそこに人が住んでいることを教えてくれる証だった。

 どの辺りを走っているのかわからないうちに一時間ほどで家に着いた。まさかと思ったが、巨大な、五00平方メートルほどの敷地には大きな片流れのシンプルな外観をしたログハウス。家の正面には昼間に太陽の陽射しを取り込めるような大きな窓。こぼれる暖色の灯りが家の辺りを照らし、家の中には暖炉が置かれていた。驚きのあまりすぐには声が出ず、唖然としながら室内をぐるぐると見回していたら奥の部屋の扉がすっと開いた。千草の祖母だった。「千草をいつもありがとう」と深々と頭を下げる祖母に、私たちこそ千草と出会えたことに感謝していると伝えた。

 この家に足を踏み入れてわずか数分で別世界に変わった。もしかしたら空港に降りたったときにはもう切り替わっていたのかもしれない。私たちは人生で感じたことのないぬくもりに浸っていた。

「ここ、自由に使っていいから」

 叔母が案内した一室にはこの春、大学に進学した娘が使っていた一人用のベッドと机が一つ。敷き布団をもう一セット持ってきてくれたが、ベッドは二人が寝ても十分な大きさだった。

 その晩は枕元にある小さな灯りを付けながらいろいろなことを話した。

「たった数時間飛行機に乗っただけでこんなに安心するのかな」

「きっとこの家が特別安心できるんだよ。私たちの関係を千草が丁寧に説明をしていてくれたこともわかる」

「うん。でも、今夜もし向こうにいたらこの時間を味わうことはできなかったんだよね」

「そうだね」

「いい選択だったね」

「うん。この選択はきっと良いことが起きる。朝がきたら私たちはこの地をもっと好きになる」

 

 

 翌日は朝から快晴だった。採光を取り入れる計算がしつくされたリビングには午前七時からまぶしいほど光が入る。寝惚け眼で出ていくとナラの木でできた一枚板のテーブルに、聞いていた住人の数より多い食事が並んでいた。昨晩は聞く間もなく寝てしまったが、この家には私たち以外にも実習生など四人が住み繁農期のこの家を手伝っていた。私たちが来る話は事前にされており、みんなあっさりと迎え入れてくれた。久しぶりに大人数で囲むご飯はとても楽しかった。

 朝食と夕食後はその日やることやったことを報告する時間がある。私たちの役目は日々の仕事の補助と、ときどき近所の子どもたちの面倒を見る教育係に任命された。佐綾が学生時代、家庭教師をしていた経験を生かしてのことだった。

「二人ともここの景色を知らないしょ?今日はのびのび過ごしてきなさい」

「重い!」

 叔母が風呂敷にくるんだずっしりとした物を手渡す。今日一日は暇をもらった。

 

「じゃあ、行ってきます」

 持ってきたリュックサックに荷物を詰め、玄関の戸に手をかける。夜に到着した私たちはこの土地の景観を知らなかった。朝食を取っているときから気になって仕方がなかった外の景色。窓からは青空の言葉がふさわしい色をした空と雄大な自然が顔をのぞかせており、ドアを開けた瞬間、思わず「わっ…!」と叫んだ。

 東西南北の広大な土地に果てしなく続く畑。西側の畑の奥には標高二000メートル級の山脈が連なっている。家は空港があった平地から少し登った丘の上に建っていた。近所の家といっても一キロ先。巨大なトラクターが周辺の畑に点在し、朝から稼働している。壮大さにただただ心動かされ、何もないことが素晴らしいこの地は天候に恵まれるとどこまでもよく見える。

 北に向かって歩く。澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込むと、その様子を見ていた佐綾が隣でほほえんだ。北海道の紅葉は十月上旬から中旬にかけてがピークという。紅葉は高いところから降りてくるため、山に近いこの地域はもうどの木の葉も赤や黄色に染めていた。驚いたのは樹の種類が本州と異って、まず杉の木がない。山と言えば力強くはっきりとした輪郭を持った人工林の印象を持っていたが、さまざまな種類の木が生えることで山の彩りをこんなにも豊かにした。

 しばらく歩いた先にあった小道の木陰で昼食を取る。風呂敷の中身は昼食用のパンやジャム、その他必要な昼食セットだった。レジャーシートを敷いてのんびりしていると、元来た道から自転車に乗った小学生くらいの男の子と女の子が通りかかった。私たちのことを見るなり「東京の人だ!」と叫んだ。それが面白くて二人で笑った。

 どうやら叔母の家で私たちの話を聞いて追ってきたらしい。私たちがなぜここに来たのか気になっているような顔をした。「おいで」と声をかけると、自転車を木の根元に寝かせる。食パンを半分に割いて手渡すとうれしそうに手に取り、手元にあった苺ジャムを塗って口に入れた。

 話しかけたかったとはいえ、勢い余ってきたことが急に恥ずかしくなったのか黙り込んでしまった。その様子がとても子どもらしいと思い、私の方から声をかける。

 少しずつ調子を取り戻してきた男の子が佐綾を見つめながら「なんでこっちに来たの?」と聞く。それに対して佐綾は目を伏せながら淡々とした口調で「東京では暮らせなくなったの」と答える。男の子と女の子はよく分からないという顔をした。

「私たちが私たちでいられなくなったからよ」

 その言葉を放った途端に後ろから冷たい風が吹く。葉のさざめきが心のざわめきと重なる。佐綾の言葉は子どもの魂までも持って行ってしまったような、普段一緒にいる私でさえ冷酷に聞こえた。冷酷なのは佐綾ではない。そのような環境にした親への憎悪だった。

 しばらく誰も何も発さない時間が続いた。少しずつ、止まった時を動かすようにゆっくりと顔を上げると、空と葉の色のコントラストが目に付く。子どもたちの視線は依然として佐綾に向けられている。その視線がかみ合うことはない。佐綾は目をつむり、どこか遠くを思っているようだった。

『自分が自分らしくいられないこと以上に大切なことはないわ』

 私は吉祥寺の喫茶店で佐綾が言ったことを思い出していた。佐綾がどこか知らない人に連れて行かれてしまう。覆い被さる影の元では、健やかな生活は送れない。それは私たちが私たちらしさを失うこと以外何でもなかった。

 

◇       ◇

 

 マヤが生き生きしていると感じるくらい、気持ちの余裕が生まれたのは北海道に来てから二週間くらい経ってからだ。今まで以上に自分らしさを取り戻しているマヤも、私が前より元気になっていると思っているようだ。澄んだ空気と水は内側から浄化させるのか、見るものすべてが輝いてみえる。

 私たちの生活はとても順調だった。秋が一段を色濃くなるこの時期。この地域にとっては一番の繁忙期に入る。最も栽培されるジャガイモの収穫は葉や茎が枯れた頃。畑に入り、毎日変わらない単純作業の繰り返しは私の精神を鍛えさせた。

 小学生と中学生、高校生の5人の勉強を見る教育係も良い労働だった。勉強は一時間やって飽きたらいろいろな話をするようにしている。本や映画の話。そのときどき、無垢な瞳で見つめられれば、私とマヤの関係だと思う。

 

「さーあやーー」

 畑で作業をしていると後方から名前を呼ばれた。振り返ると逆光でまぶしさに目を細めるが、マヤが遠くで大きく手を振っているのはわかった。小走りにこちらに向かってくる。トラクターを動かしていた叔父が一度手を止めて「もう終わったのかー?」と声のボリュームを上げて聞いた。それにマヤが「そうーー」とうれしそうに応える。

「佐綾、顔に土ついてる」

 近くまで来たマヤがくすくすと笑い、手の甲で頬をぬぐう仕草をした。つられてその動作をしたら余計に泥がつき、それがまたマヤを笑わせた。叔父の一声で今日の仕事が終わると、マヤは待ちきれないと言わんばかりに私の手首をぐっと掴んで引き寄せる。

「ね、いつものあれ行こう!」

 

 仕事終わりに時間があれば家の周りを歩くのが日課になっていた。何よりマヤが楽しそうで今日は違う道を探そうと意気込んでいる様子は見ていて飽きない。

 マヤを先頭に歩き始めると、いつも家の西側に見える山に向かって登るように進む坂の先に小さな神社があることを知った。家から三キロ離れたところに鳥居が建っている。「樹魂」と書かれた碑に小さな地蔵、隣には「登山道入口」の看板とが地面に刺さっていた。

 北海道といえば思い浮かべるシラカバの木はこの辺りは少なかった。代わりに神社にはカシワとミズナラの木が多く生えていた。足元に落ちている枯れ葉を踏むと鳴るざくざくと音をたて、秋を足の裏から味わっている気分になる。

 敷地内をふらふらと歩いていれば、マヤが何か異変に気づいた。耳をそばだて、かすかに聞こえてきたのはお経だった。私たちは声のする方へ足を進め雑木林を抜ける。視界が開けたそこには大きな池が現れ、さらに奥に行けば人の手がいき届いたきれいな庭と川があった。仙境のようにも思えるその場所には大きな屋敷が建ち、駐車場には車が何台も止まっていた。

「煙があがっている!」

 マヤが指を指す方角を見ると、同じ衣装に身を包んだ大人が複数人いた。何かを燃やしている。煙を囲んで唱えられるお経。偉大な山を背景に行われる儀式は普段見る儀式とは違った、異様な不思議な意味をその場にいる者に抱かせた。

「何かはわからないけど、こんなにも立派な山を前にしてやるなんて、なんかぜいたく」

 そうだね、と返して人に気づかれないところから見守る。確かにぜいたくな空間だった。険しくそそり立ち、きりりと締まって見えるその山は本当に見た目もいい山だった。なぜこんなところにこういう施設があるのだろう。この人たちは定期的に集まり、祈りを捧げているのだろうか。神は彼らに何をもたらすのだろう。

 山の偉大さは勝手に人を信仰させる、ということが最近の感想だ。かつて、ここに暮らしていたアイヌ民族が自然と共に生き、ありとあらゆるものを神様として大切にしていたことがよくわかる。よくわかると数週間前に本州から来た私が言っていいことなのか判断できないが、少なくともこの地が人をそうさせるということだけは確かで、山を前にして人間はいかに小さいものかを感じさせられる。ここに住む人はそれを理解している。千草の親族を見ていて思う生き方の潔さはそこにある。恵みは人間だけのものではなく、自然と分かち合う。

 ふと、時間が気になって携帯を開いたら時刻は午後四時をまわっていた。四時だというのに、辺りに漂うのは夏の午後六時頃の空気。仕事を終えてから四十分くらいはその場所にいたようだ。まだこの場所にいたい。後ろ髪を引かれる思いを抑えながら「そろそろ帰ろう」と帰宅を促す。親戚の家の夕飯は早い。シャワーを浴びて着替えたりする時間を考え、マヤの肩に手を置こうとしたときだった。

 途端にマヤがかけだした。

「えっ」

 一瞬、何が起きたのか判断できず、手のひらを見つめる。するとマヤが軽やかに地面を蹴った。

 

「急にうれしくなってしまったの!」

 

 バレリーナのようなジャンプで辺りを飛び回る。と思えば次は地面を転がったり。両手を大きく広げてその場でくるくる回る。

 その動きは本人の意志というより、誰かの意志に見えた。誰かというのはたぶん、この山の神だろう。指先まで行き届いた意志がマヤの体を舞わせ、沈む夕日がさらに彼女を輝かせた。山の神が、動きの一つひとつで動植物の声に呼応する。

「マヤ・・・」

 瞳孔が開き、髪も息も乱れて動かされるままに動く。名前を呼んでも私の声はどうやら届いていない。呼吸を整える間もなく、今度は先ほどとは異なる声に耳を傾けているようだった。

 薄々感づいていたが、マヤと山は似ていた。ここに来てからより強く思うようになった。時間があれば遠くの山を見ていたマヤ。引き寄せられるように、まるで山と対話しているかのように、見つめていた。そのときのマヤの心の中に、私はいない。置き去りにされていることはわかっていた。ときには寂しさもあったが、マヤが日に日に潤っていく様子は私にも潤いを与えた。みずみずしく、わき水のようにあふれてくるエネルギーはすべてこの土地から与えられているものだった。

 

「フーッ・・・フーッ・・・」

 思う存分に走り切ったのか、足を止め呼吸を整える。エネルギーを一瞬で開放するのは体力を使う。一種のトランス状態から落ち着きを取り戻すのには時間を要したが、次第にいつものマヤに戻っていく。頬を赤く染め、潤むその瞳で見つめられれば初めてマヤを出会った日のことを思い出す。

「佐綾ごめん・・・」

 落ち着いたマヤが私の手をにぎった。空気は乾いているのににぎられたマヤの手は湿度を持っていた。汗が私の手に移る。いつも以上に私たちはつながっているような気がした。マヤとの明るい未来はここから開かれていく気もした。

 

 家に帰ると出迎えた叔母がぼさぼさの髪をしたマヤのことを心配した。マヤはあまり覚えていないようで、代わりに私が説明した。叔母が言うには私たちが行った山はアイヌ語で「エエンチェンヌプリ」。尖って突き出ている山を意味する。頂上が完全な花崗岩でできている山はこの辺りでも少なく、何よりその山にあった神社は、山の神様を祭っている。かつて信仰登山が盛んに行なわれていた山だという。毎年山開きの際に火渡りの儀式が行われており、この地域では有名な山で誰もがどこからでも指呼できる。神道でも仏教でもない信仰。

 夕食時には他の住人にも今日あった出来事を話した。来た道を戻る途中、空気中に舞う草埃が夕日に射止められたように陽の光が差し込みきらきらと輝いていた。初めて見る美しさに思わず手を伸ばして飛んでいるものを掴もうとしたと伝えると、光に反射して輝いていたものの正体は雪虫といい、おしりに白い綿を付けてふわふわと漂うアブラムシの仲間だった。

「そっか、雪虫がもう飛んでいたのね」

 叔母が箸を止めて窓の外を見る。北海道と周辺の島々では、雪虫が飛び始めたら初雪が近いのだと、みな口をそろえていう。そうか、もうすぐ冬が訪れるのか。

 

 

 その晩、私は千草に電話をかけた。

「あ、千草?うん、いろいろとお願いばかりで悪いのだけど、手配してた新作のコートさ、早めに送ってもらってもいい? うん。どうやら冬が訪れるらしい。…ああ、相当寒いんだよね。肝に銘じておく。それはそうと、私たち住むことにしたんだ、こっちに。・・・うんうん、驚かせてごめん。そう…。決めたの。今日のマヤの様子を見て確信した。うん・・・大丈夫。両親のことはいずれ解決するよ。・・・・・・千草。これはきっと決まっていた未来なんだ。なるようにしかならないし、世界はそういう風になっている。うんだから、千草と私たちが合流できるのもそんな遠い未来じゃないと思う。…もちろん3人で暮らそうよ。すぐとは言わない。待ってるから。この地で待っているから」

 

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久しぶりに博物館に行った。小さくてこじんまりしたところだけど、

わたしの元気の源で、展示される化石とか骨格標本をみるとどうしてもエリザベス・ハンドの「冬長のまつり」を思い出してしまって胸が熱くなる。時間をとってまた読みたい

 

宙に浮いている鯨たちをみて遠くなる

 

 

春。

 

北と西と、山に囲まれている地いる。

車で1時間も走れば麓の方まで近づく距離にはいるけれど、近づかなくても他に山を遮るような大きな建物はないから、マンションの庭からも会社からもどこからでも見える。

それが心の癒しというか、仕事で外に出た時に建物の間からまだ雪の残る山が見えると、今日もこの地を愛せると思えるのだった。

 

昨日は春だった。

桜は満開。公園に花見しに行ったら桜と一緒にこぶしの白い花が咲いていた。

「この国は桜が咲くのは遅いから、むこうのひとが桜を見ている時に、こっちはこぶしの花を見る。って演歌で言ってた」

こぶしは至る所に生えていて、その大きさにも圧倒される。へー、ってぼけーとした返事をして、それぞれ適当にたのしく歩いた。

この地に来てから季節を楽しんでいる。

食も景色も気温も、すべて変わっていく。お店の人は旬な食べものを教えてくれる。ゴールデンウィーク明けはアスパラみたいで、ほんとみんな口を揃えて言うから少し笑えてしまった。

いいね、アスパラ。

 

わたしを支えてくれる自然たち  今日も明日も永遠に守って

 

うどん

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うどんの写真ってあんまり撮ったことないけど、良い。

 

佐綾と千草(前回の:卒業 - kiroku)がうどんを食べに行く話書きました。時間が前後しますが、卒業式より前の話です。↓

 

 

 ある日気づいたことがある。

 私とマヤの組み合わせはよくあって、マヤと佐綾の組み合わせは絶対だけど、私と佐綾でどこか出かけたことが今までにあっただろうか。学校で二人になることは勿論ある。遊びにとか、ご飯を食べに行くとか、正直したことないんじゃないかって、ふとそう思った矢先だった。

「今度一緒にお昼食べに行こうよ」

 廊下を歩いていたら佐綾と会って、思い出したかのようにではなく、このことを伝えるために来たかのようにはっきりと食事に誘われた。どこに行こうかと尋ねたら珍しくもう決まっているらしい。

「うどんって、普通のうどんでいいの?」

「もちろん」

「佐綾はああいうところ行かないかと思ってた」

「わたしも普通のJKだよ」

 佐綾はマヤと付き合い始めてから色々な言葉を使うようになった気がする。私たちは土曜日のお昼に、近くのイオンで待ち合わせることにした。

 

 昼時のフードコートはとても混んでいて、家族連れで溢れていた。特にうどん屋は安いし人気があるから大変だ。最後尾に並んだがいつお盆を取れるのだろうと前にいる人の数を数えていたら佐綾に「千草はやさしいな」と言われた。

 待っている間私たちは色々な話をした。

「佐綾はさ、マヤのどういうところが好きなの?」

「全部好きだよ。強いていうならわたしは少し意地が悪いからなかなかキスしないんだけど、ずっと待ってるからね、そのあたりとてもかわいいよ」

「なんだ、惚気か」

「千草が聞いてきたんだよ」

「そうだった」

 佐綾は普通の人は言うのが恥ずかしそうなことも平気で言うし、マヤのたまに外で出る好き好き攻撃(私はそう呼んでいる)にも真摯に答える。そういうところがなんだか爽やかでいいなと思う。

 他にもたくさん二人のエピソードを聞いた。マヤからもらった誕生ケーキの底が焦げていたけど頑張って食べた話、罰ゲームで人生初めて一人でピザ屋に行って大量に注文してしまった話、マヤとゲームセンターで撮ったプリクラの数々。二人の未来はこれからも楽しいことだらけなんじゃないかと思った。

「あ、佐綾はうどん何にするか決めた?」

「わたしは釜揚げ」

「同じだ。すみません、釜揚げうどんの並を2つお願いします」

 

席について二人で「いただきます」と言ってから待ちに待ったうどんに箸を伸ばす。湯気がほくほくたつうどんを生姜とネギをたっぷり入れたつゆにつける。

「うん、おいしい」

「寒いときの釜揚げはサイコーだ」

「生姜はあればあるほど入れてしまうな。マヤともここ来たことある?」

「 いや、まだない」

「珍しいなー。真っ先に来そうだけど」

「マヤ曰くうどんは家で食べたいらしい。寒い日の夜にわたしの一人暮らし先で、鍋から食べるのがいいとのこと」 

「へー…。なんだかマヤらしいな」

「だからこの楽しみはとっておくことにしたんだ」

「そっか。…じゃあ、またうどん食べに行きたくなったら私と行こう」

「ありがとう。千草と出会えてよかった」

その後佐綾は黙々とうどんをすすった。私もつられてうどんをすすった。

 

 

 

うどん