雪の日の記憶を共有する
「雪ふってるの、初めてみたんです。しんしんと、静かにふるんです。」
「雪は音をすうから。雪の日の夜はいつも以上に静かだよ。わたしはそんな日は決まってソファーに寝転んで、降り続く雪を眺めるの。うちは窓が大きいから、よく見える。外は本当に真っ暗で、寒そうで、でも家の中は暖かいからずっとこうしてられる。そんな時間を過ごすのが好きだった。」
「やわらかくて、手にのった瞬間に消えてしまった。」
「東京の雪とはちがうでしょう。」
「はい」
「また見よう。遠い地に思いを馳せて、かけあしで向かって。今度はわたしの家においで。ソファーは二人くらいは余裕だから。」
近所の公民館
この日は天気が悪く、でもぎりぎり雨は降っていなくて湿気と、雨が近い匂いがあたりに充満していた。「空間みんなの風景」の製本は公民館の長机で作業された。
作業中、どこか懐かしい感じがしていた。でもこの懐かしさはあまり喜ばしい懐かしさではなく、むしろだんだんお腹がいたくなるようなものだった。
テスト前なのだろう。周りにさまじめに勉強している学生がたくさんいた。大学近くの公民館は勉強するスペースが広く取られている。
お腹がいたくなった原因は、子どもの匂いと、学校の匂いを感じ、昔の記憶を呼び覚まされたからだった。私は図工の時間のことを思い出していた。静かにみんなで絵を描く作業をしなくてはいけない時間。静かなのが嫌なのではなく、学校の圧がそこから感じられたからだった。窮屈だったし、つまらなかった。
小・中学生の頃は学校が嫌いだったという思い出が多い。授業は真面目に聞いていたけど、そうすることが良いと思ってたからしていた。今のような性格になったのは自己防衛本能がこの時期に格段上がったからで、生きよう生きようと試行錯誤していたわたしは、逆に自分を守らなければ死んでしまいそうなぎりぎりなところにいたんだなって思うと、たまに昔の自分に「おまえはおまえのままで大丈夫だよ」とか声かけてあげたくなる。
「長く生きてるといいこともあるよ。」って、知り合いから聞いた言葉が好きだなーって思って、事実、悲しいことはあっても、今のところ生きてきてよかったと思えることはたくさんあった。芸大に入ってよかったことは、自分と同じような人たちの集まりだったことで。大人になったら同じ考えの人に出会えるかもしれないし、自分を支えてくれる本も見つかるかもしれないし、昔は何も思わなかったけど、生きるってそういう一瞬に出会うためなのか、とか今は思ったりする。