kiroku

不確かなこと

吉増剛造展

 
 
めちゃめちゃ暑い日だった。
東京は沖縄に比べて涼しいと思ったけど、ビルのせいかな…すごく暑い。
 
吉増剛造展に行った。
展示室が迷路みたいに順序が複雑で入った一瞬迷子だった。
中ではどこかから音声が流れていて、黒い薄いカーテンがゆらゆら揺れていて、漂うように展示を眺める。
吉増剛造は色々な人から影響を受けてた。ジョンケージのドローイングとか、中上健次の原稿とかあって、中上健次の原稿の字がすごく丸くてびっしりで、それを保ち続ける精神みたいなのに感動した。それは吉増剛造もだけど、同じ書体を保つのってすごい作業だと自分は思う。音楽でいうとロングトーンでの音色、音の中身を均一にし続ける感じ。
 
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「怪物君」という詩集を本人が詠んだ声が見本誌の隣で流れていてびっくりした。
文字を見て、声を聴いて、これは音楽だと思った。
詩に描かれている字の横に「、」がついている字があったりして、それは音楽でいうアクセントだった。それが一文に何度か現れることによってリズムが生まれ、そのリズムというのは不規則であって、まるで変拍子のような、そこで私はジョンケージを想像した。
すごく言葉は自由だった。
音楽って、そういうことなのかなと思った。区切るところによっては別な言葉が生まれるし、その言葉に意味などなかったりもして、でも逆にいえば区切り方を間違えると作者の意図に反してしまうかもしれない。
 
自由に読んだらよくない?って思うこともある。人それぞれだし。でもそうしていい時とよくない時がある。今まで自分はクラシック音楽はルールから外れちゃいけないんだと思っていた。でもそれはただ自分を苦しめるだけだったし、気づいたのは、それ以外のことをすると変なのだ。「しちゃいけない」んじゃなくて、より自然に良い形にするために「しない」だけだった。けど初めからしないのではなくて、してみて、初めて違和感を感じるのだ。
クラシックって堅いなー、みたいなこと思ってたけど、思っている以上に「これ以上したら変」の域が広い。
如何にぎりぎりまで攻められるか。そこに同じ曲を演奏しても他の人には生まれない、その人個人の何かが生まれる。
 
 
めっちゃ当たり前のことを書いたのかもしれないけど、よかったね、わたし。